広告小説 恵酒【巌林-ganrin-】
 男はギィと音を立て、木製のドアを開いた。内装は洞窟をイメージした、岩のような壁にゴツゴツした突起物が所々に有り、席の合間に樽のオブジェが転がっている。客は少なく、テーブル席で孤独に飲んでいる客が二、三人いる程度だった。男はトレンチコートと帽子を脱ぎ、入り口に立っている若いスタッフに渡した。 客のいないカウンターに男は座った。すると男の前に眼鏡に禿頭のバーテンダーが来た。男はポツンと言った。
「いつもの」
 バーテンダーは軽く頭を下げ、ボトルを取り、頼まれた酒を準備し始めた。
 男の表情にはやや憂いがあった。時々ため息をつき、頭を抱えていた。そして、整えられた髪を少し崩すように掻いた。
「どうぞ」
 バーテンダーは男に酒を出した。しかし、それは男の頼んだ酒ではなかった。赤いコランダムのような酒だった。「あちらのお客様からです」
 バーテンダーの視線の先、三、四席離れた所に一人の女性がいた。顔立ちは美人とは言えないがそこそこの顔立ちだった。そこだけ別次元の様な主張をする口紅が印象的だった。服は既製品で無いことがそれに疎い彼でもわかった。
「そんな顔じゃ女性にモテないよ」
 女性はややしゃがれた声で言った。
 男は笑った。まさに先程、女性に振られたばかりだからだ。
「すごいですねぇ、貴女は占い師ですか?」
 女はコースターに何かを書き、紙を添えて、男の傍に立った。
「あんたにとって、もっと都合のいい職業さ」
 女は男の手にコースターと紙を押し込み、ハイヒールをカツン、カツンと音を立てて店を出た。
 男は女のくれた酒をあおる様に飲んだ。女の酒だからと、甘いものだと思っていたが、喉が焼けるように辛かった。
 その辛さが、恋の成就の辛さだと男は思った。
 程なくして、男の酒が届いた。先程の辛さを消すようにグイッと飲み、店を出ることにした。
 会計では二杯分の値段を言われ、男はクレジットカードで払った。
 トレンチコートを貰い、寒い外へ出ていった。
 男は握られたままの二枚を、男は取り出した。
 僅かな街灯の光はコースターをこう示していた。
「互いのいい人見つけるよ」
 紙は名刺だった。
「結婚相談所サトウ
代表取締役佐藤エミ」
 男は笑いながら、紙を破いてばらまいた。



     恵酒 定価三百八十円


広告小説 恵酒



 渋さと時折見せる笑顔が人気の伊藤清二はギィと、音を立てニロコ社製のドアを開けた。内装は石見洞窟(ロックに行こうぜ!で御馴染み)をイメージした、石見岩のような壁にゴツゴツした石見岩のレプリカが所々に有り、睦月社製のテーブルの合間に如月社製の樽のオブジェが転がっている。客は少なく、睦月社製のテーブル席で孤独に飲んでいる客が二、三人いる程度だった。男は洋服屋弥生のトレンチコートと帽子を脱ぎ、入り口にたっている弟系俳優、水無瀬海里に渡した。 客のいない卯月社製のカウンターに伊藤清二は座った。すると伊藤清二の前に創業五十周年を迎えるサツキ眼鏡店の眼鏡に禿頭のバーテンダー、名脇役の五十嵐修が来た。伊藤清二はポツンと言った。
「いつもの、ミナヅキ工房のジ・オリジンワインを」
 バーテンダーは軽く頭を下げ、ジ・オリジンワインボトルを取り、頼まれたジ・オリジンワインを準備し始めた。
 伊藤清二の表情にはやや憂いがあった。時々ため息をつき、普段、神有月美容室で整えている頭を抱えていた。
「どうぞ」
 バーテンダーは伊藤清二に酒を出した。しかし、それは伊藤清二の頼んだジ・オリジンワイン(今年で五十周年、今年の出来は去年より芳醇な香りが楽しめます)ではなかった。文月ワイナリーのエニグマ(新発売)だった。
「あちらのお客様からです」
 創業五十周年を迎えるサツキ眼鏡の眼鏡バをかけたバーテンダーの視線の先、三、四席離れた所に一人の葉月堂化粧品のローション、美容液、下地クリームにナガツキ・?のコンシーラー、口紅、ファンデーションをつけた女性がいた。(これらの化粧品はお近くの量販店で入手できます)顔立ちは美人とは言えないが今人気急上昇中の実力派女優、神無月サエに良く似た顔立ちだった。服は霜月オーダーメイドの話題の完成までに三ヶ月、予約で二年先まで注文出来ないと言う人気商品だった。服に疎い彼でも高いモノだと感じた。(只今、霜月に予約すると二十%OFF!)
「そんな顔じゃ女性にモテないよ」
 今人気急上昇中の神無月サエ似の女性はややしゃがれた声で言った。
 伊藤清二は笑った。まさに先程、「いつかは、アナタの奥さんに」のキャッチコピーと特長的な唇と何処か年不相応な色気を醸し出しているアイドル、志茂田カヅキ似の女性に振られたばかりだからだ。
「すごいですねぇ、貴女は占い師ですか?」
 人気急上昇中の神無月サエ似の女性はコースターに何かを書き、姫製紙の紙を取りだし、伊藤清二の傍に座った。
「あんたにとって、もっと都合のいい職業さ」
 人気急上昇中の神無月サエ似の女性は伊藤清二の、今、二着買うともう一着付いてくるセールを実施中であるスーツの師走のシャツの胸ポケットにコースターと姫製紙の紙を押し込み、霜月ハイヒール製のハイヒールをカツン、カツンと音を立てて店を出た。
 伊藤清二は人気急上昇中の神無月サエ似の女性のくれた文月ワイナリーのエニグマをあおる様に飲んだ。女の酒だからと、甘いものだと思っていたが、喉が焼けるように辛かった。
 その辛さが、恋の成就の辛さだと伊藤清二は思った。
 程なくして、伊藤清二のジ・オリジンワインが届いた。先程の辛さを消すようにグイッと飲み、店を出ることにした。
 会計では二杯分の値段を言われ、伊藤清二は三浦クレジットカード(リボ払い)で払った。
 洋服屋弥生(セール実施中!)のトレンチコートと帽子を水無瀬海里から貰い、寒い外へ出ていった。
 入れられた二枚を、伊藤清二は街灯に照らした。
 コースターにはこうかかれていた。
「互いにいい人見つけるよ」
 姫製紙の紙は名刺だった。
「結婚相談所サトウ
代表取締役佐藤エミ」(登録会員数七千人突破!)
 伊藤清二は笑いながら、姫製紙の紙を破いてばらまいた。



 *この小説は、睦月社、如月、洋服屋弥生、卯月社、サツキ眼鏡、文月ワイナリー、ミナヅキ工房、葉月堂化粧品、長月ー?、霜月ハイヒール、神有月美容室、スーツの師走、ニロコ社、石見洞窟観光振興会、姫製紙、三浦貸し金、結婚相談所サトウの提供でお送りしました。(スポンサーの順番は出資額順です。また敬称は省略しました)
 注意この小説には不適切な表現があります。お酒をイッキ飲みすることは急性アルコール中毒の危険性が有ります。止めましょう。
 (女の酒だから)と言うような女性を下に見る発言は男女協同参画社会の理念に反します。止めましょう。紙を破いてばらまくのは周辺の環境を汚すことと資源の無駄使いに繋がります。止めましょう。


 伊藤清二主演水無瀬海里、神無月サエ出演映画
 ある日、日本に進出してきたチャイニーズマフィア王一家元に一通の手紙が届く「百一人の王一族を全員殺す」
 届いたその日から、一人、一人と王一族が殺されていく。果たして犯人は……? 壮大なスケールと緻密な設定、豪華俳優陣でお送りする今世紀最大のアクションサスペンス!!
「百一人王さんーー名探偵一ノ木三郎最期の事件ーー」
近日公開


広告小説「恵酒」
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JKがホラー書きたいとつらつら言ってるだけの話が書きたかった【桜餅-sakuramochi-】
 私は日本語が好きだ。
 …とは言っても、語彙力はそんなにないし横文字もネットスラングも普通に使う、そんな私である。便利だよね、横文字。
 それでも私は日本語が好きだ。「じょうろ」の漢字知ってる?「如雨露」だよ?雨露の如しだよ?綺麗じゃない?「火の手があがる」とか「燃え上がる」とかもすごくない?なんかそのまんまって感じしない?
 …暴走しすぎたかな。まあ、このお話はそんな私の日常(というか脳内)を切り取っただけのお話です。


 じゃあ消すよ、という声と共に部室の電気が消される。一瞬の暗闇の後、携帯電話のライトが点けられた。下校時刻を少し過ぎた頃なので、私達がいる廊下はもう真っ暗だ。まだ運動部員が外にいる筈なのに、この空間だけが切り取られたかのようにシンと静かで。文芸部室は校舎の最上階にある。位置が高いせいか、窓の外の光はほとんど意味を成さない。先程点けたライトだって、歩くのに問題がないという程度で、隣の部員の顔がよく見えない位には心許ないものだ。
 ――ああ、楽しい。
 感じるのは、えも言われぬ高揚感。暗闇の中で一人上機嫌になる。何故だろうか、昔から暗闇が好きだった。
「もう冬なんだね、すっかり暗くなってさ」
「ね、この時間さ、こないだまでまだ明るかったよね」
 そんな会話をしつつ、数人の部員と一緒に階段を降りる。
 三階まで降りてきたとき、一人があ、と声を上げた。
「どした?」
「教室に傘忘れた」
「取ってきなよ、待ってるし」
 確か彼女の教室はすぐそこだった筈だ。そう思って言うと、わかった、という返事と共に彼女は廊下の奥へと消えて行った。消えていった、というよりも「溶け込んだ」と言うのが正しいのかもしれない。そう表現したくなる程、明かりから離れた人間というものはスゥッ…と消えていく。戻ってくるときにも、「浮かび上がる」という表現をこういう場面にも適用した人を賞賛したいと思う位には感動している。
 閑話休題。
「お待たせー」
「よーし、帰ろー」
 またゾロゾロと歩き始めるも、またすぐにその動きは止まった。
「ごめん、生徒会の方電気点いてるから見てくる、先帰ってて」
 その言葉に了承して歩き出す。三度目の正直、やっと正面玄関まで着いた。お疲れー、と言ってみんなと別れる。家の方向が一緒なのは先ほど生徒会室に行った彼女だけなので、今日は一人で帰ることになる。
 部活帰り、帰りに一人となると、私がすることは一つである。そうーーホラーが書きたいとつらつら一人で(しかも脳内だけで)語るのである。これがなかなか楽しい。
 …ほんとに語るだけだからね?面白くなくても責任持ちませんからね?それでもいいなら、読み進めて、どうぞ。


 ううん、ホラー書きたい。
 (私の一人語りは毎回この一文から始まる。これから始めることで、別のことに思考が飛ぶのを防いでいる…んだろうか。今日はこれ、と決めたらそれだけを考えないと脳がパンクする)
 冬の部活帰りの空気?雰囲気?はホラーを書くのに最適だと思う。シンとした廊下は電気を消したらいつもより暗くなって、懐中電灯がないと歩けない。集団から少しでも離れるとすぐに見えなくなる。こちら側は明るいのに廊下の向こうは真っ暗で、得体の知れないナニカがいるんじゃないかという気分になって。本当にいたらどうしよう、と思う。
「一寸先は闇、みたいな?」
「ちょっと違うと思うんだけど…あ、ていうか聞こえてた?」
「随分大きな独り言だなあと思うくらいには」
「マジかーはっずい…」
 顔を覆うとクスクスという笑い声。
「いいじゃん、面白いよ」
 続けたら?と言われてそちらを見遣る。薄暗いからかかおは見えないけど、愉しそうな仕草と声。じゃあ、と言って続ける。
「あっちに階段あるじゃん」
「あるね」
「あそこ降りたら住宅地なんだけど、結構暗いんだよね。街頭の光は小さいし、家にも電気が点いてないとこが多いんだよね。大通りから離れてるからそう感じるだけかもしれないけど。この非日常感がさあ…なんていうか…ね?」
 またクスクス笑う声と同時に、肯定を返される。
「わからないでもない。いいね、非日常感。言い方わからないのもわかる」
「でしょー!?」
 少し嬉しくなって相手を見る。タイミングが悪いのか、薄暗くてまたもやかおは見えなかった。
 ぽつぽつというには少しうるさすぎるくらいの会話をしながら歩いて、不意に隣の彼女は立ち止まる。
「じゃあ私、こっちだから」
「そっか、じゃあね」
「うん。ありがとう、楽しかった」
 手を振って別れる。家に着く直前、ふと思う。そういえば結局、あの子のかお、見えなかったなあ。
 ――ていうかあれ、あの子誰だっけ?顔は見えなかったし、声も知らないような…?
 少しゾクッとしたけど頑張って思い直す。まあいいや、楽しかったし。でもまあ…こんなガチホラーみたいな体験はもう勘弁してください。

桜の訪問者【苺みるく-ichigomiruku-】
 春、満開の桜の木の下であなたと出会った。
 あなたはとても綺麗な人だった。
 あなたに見とれていたらこちらに気がついたあなたは私に声をかけてくれた。
 その日から毎日あなたと話すのが日課になった。あの桜の木の下で。
 学校の話や世間話など色々あなたに話した。あなたはいつも真剣に話を聞いてくれていた。
 この時間がすごく楽しかった。
 しかし夏が段々近づき、桜の花が散っていくとだんだんあなたも来るのが遅くなり花が全て散った時にはもうあなたは来なくなった。
 その時やっとわかった。あなたの事が。
 来年の春にまた会えるかな。ううん、きっと…。



ヘッドフォン【アイオ-aio-】
すべてに蓋をしてしまえ
なにもかもに栓をして

目を覆って
耳も覆って

盲目に流れるのはハウリング
いつだってすべてをシャットアウト

逃げていたのはダレ?

見えなくていい
聞こえなくていい

そう言って下を向いた

訪れたスカイブルー
心地良いハイエー

ヘッドフォンを取ったのはダレ?

口紅【菖蒲-ayame-】
 おや、客ってのはお前さんのことかい。こりゃまた随分と若い子だな…いや、何。ちと驚いたが、別にここじゃあ老若男女、身分や理由なんぞ関係ねぇ。用があるなら誰だって構わねぇさ。ん?あぁ、そいつは間違いなく俺の事だろう。この暗い路地の辺りにゃ俺以外に情報屋なんて名乗る奴はいないからなぁ…。それで、お嬢さん?俺に、いったい何を聞きに来たんだい?あ、その前にちょっと待ちな。俺から話を聞くってことは、少なからず代金が発生するが…あぁ、わかってくれるのか。物分かりがよくて助かるよ。こっちも商いなもんでね。まーったく話が通じねぇようなやつもいるしなぁ…。おっと、こいつは失敬!関係ねぇ話しちまったな。それじゃ、お嬢さんの話を聞かせてくれるかい…?
 ――――……なるほどなぁ…。つまりお前さんは、俺イチオシの情報を知りたいってことか。…ん?あぁ、そうだ。俺が持ってる情報で一、二を争う面白い話なもんでね。イチオシってわけよ。
 それじゃ、俺の知ってることを話そうか。まず初めに言っておくがお嬢さん。俺も人伝いに聞いてくる話だ。俺の言うこと全てが真実だなんて、嘘でも言えねぇ。それだけはわかってくれよ。…ま、単純に自分を信じれって話だけどな。よし、いい返事だ。それじゃ、教えてやるよ。
 むかーし、むかし…って言うほど昔ではねぇらしいけどよ、とりあえず今より何十年も前に、この世界のとある国に一人の服飾職人がいた―――。

 彼の腕は非常によく、とりわけ彼の作る装身具は精密な造りでありながら、そこはかとない妖しさ、そして見るものを虜にする不思議な魅力があると大変な人気だったそうだ。小さな宝石加工から、大きなドレス飾りまで、とにかく装身具に関して、彼の腕にかかれば作れないものなんてなかった。彼の店は大繁盛、その人気ぶりは衰えることを知らないように、経営は右肩上がりだった。
 ある日、彼の腕の良さを聞いて一人の女性客が来店した。綺麗な目鼻立ちの、真っ赤な口紅がよく似合った女性だ。彼女はかなりの身分の家の出身だったが、周りを見下すこともなく、誰にでも平等で、また知的な女性だった。有名な服飾職人となっていた彼だが、元々は非常に貧しい家の出で、上流階級と接する毎日でも心のどこかで自分の出生を恥じていた。でも彼女はそれを知っても決して馬鹿になんかせず、彼の才を妬んで、生まれに関する悪い口を叩くような連中にも皮肉を交えて言葉を返す、そんな女性だった。彼女は彼の装身具の素晴らしさに感激し、何度も店に訪れては、装身具を買っていった。また、彼女を魅了したのは彼の作るものだけではなかった。彼自身の優しさや、仕事に対する誇り、その人間性に惹かれていったのだ。
 彼と彼女の距離は自然と縮まり、いつしか二人は恋人同士となっていた。彼は今まで通り高品質の装身具を作る傍ら、毎日少しずつ愛する人のための特別な品も制作し始めた。それは、彼がこの仕事を始めてから一番綿密なデザイン画を描き、相当の質の材料でそれを作り上げていく。ゆっくり、ゆっくり丁寧に仕上げていったその品は、指輪と首飾りの対になる装身具であった。また、それぞれに嵌る二つの美しい宝石の形が口紅に似ていたこと、彼の店の名がその地方で口紅を意味する言葉だったことから、二つの装身具を「口紅」と彼は呼んだ。指輪のほうには息をのむような紅玉、もう一方の首飾りには吸い込まれるような青玉をあしらった、彼の装身具の最高傑作と言える品だった。
 そんな中、相思相愛と言うべきに相応しい二人に、ある問題が起こった。例にもれなく、彼女の両親が彼女の結婚相手を決めてしまったのだ。彼がいくら彼女を愛そうが、いくら人気で腕のいい職人だろうが、所詮は低身分出身のただの商人。彼女は両親に何度も何度も抗議し、自分の意志とは違うことを伝えた。しかし、彼女の両親は決して首を縦には振らず、これ以上彼に会ってはいけないと、彼女に外出禁止を言い渡した。
 そこで彼は、彼女の前から姿を消すことを決意した。自分といては、彼女は幸せになれないと判断したからだ。外にも出られないし、自分のやりたいこともさせてもらえない。自分が去ることで、彼女が幸福にさえなってくれれば、それでいいと思った。
 しかしせめて、口紅だけは渡したいと、彼はそう願った。彼女に贈るつもりで、まだ渡していなかった赤い口紅を―――。だが、もう片方の口紅を彼が持つわけにはいかない。片方だけ持っていれば、きっと彼女は彼のことを忘れられないだろう。それでは自分が去る意味がないと、彼は頭を悩ませた。でもこれは対になるものだ。一つずつ互いが持っていて、それでいて彼女が気づかないような……。
 数日間考え抜いた彼は、とある細工を施した。そして―――彼女が次に親の目を盗んで彼の店に訪れた時には、彼の姿どころか、家具等もすべて無くなっていた。たった一つの箱を残して。彼女の両手に収まるほどの小さな箱。オルゴールだった。蓋には服飾職人の彼らしく細かく丁寧な造りの装飾が施されており、赤紫黄といった美しい宝石も散りばめられていた。彼女がそれを開くと、どこか哀しいメロディと共に一枚の紙があった。そこには彼が去ること、謝罪、それから彼女の幸せを願う言葉が綴られていた。彼女は泣いた。泣いて泣いて、涙が涸れるのではと心配になるほど泣いた。だがいくら泣いても彼が去ってしまったという事実だけが彼女を蝕んでいき―――。彼女はとうとう彼が消息を絶って数年後、自室で眠ったように息を絶ったらしい。彼が残したオルゴールを抱いて。…知ってか知らずか、蓋の赤い宝石に手を添えながら。

―――っていう、話だ。
 これで終いだよ、お嬢さん。いかがだったかな?ははは、確かに、『面白い話』ではねぇな、こりゃあ失敬した。でも宝石や美術品の歴史専門の情報屋なんでね、俺は。こりゃあまだまだ幸せな方だろうよ、その口紅にとっちゃな。
 さーて、ここでお嬢さん、俺からも一つ尋ねていいかい?これに答えてくれたら代金は半額で結構だ。よし、そうこなくっちゃ。それじゃ、率直に訊くけどよ。…お前さん、今の話に出てきた女の親族か何かだろう―――?

   *

 目の前に座る、お世辞にも綺麗とは言えない土色のローブを羽織った男性に、私は思わず目を見張った。半額にしてくれる質問と言うから、いったいどんなのかと思えば……。わずかに迷ったが、まぁ知られて困るようなことでもあるまい。それに、彼の眩しいものを見るような優しい視線に、なぜだか答えなくてはいけない気がした。
「……そうよ。おじさんよくわかったわね」
その言葉に、彼は黄ばんだ歯を見せて大きく笑った。
「はーっはっはっは!そりゃあわかるってもんだ。人生もそこそこ長く生きてるし、何しろお嬢さんみてぇな若い子がわざわざこんな辺鄙な場所まで、俺みたいなやつを探す理由なんぞ知れてるしなぁ」
 おじさんは一通り笑ってから、私を見つめた。今度は見定めるように。
「な、何かしら…?」
「お前さん、結局例の彼女とはどういう関係だい?」
「……妹よ」
「妹?俺も歳か…とても二十年前に亡くなった人の妹とは思えないほど若く見えるが…」
 なんだ。さっきは具体的に何年前かなんて言わなかったのに、知ってるんじゃない。
「私は姉さんが亡くなる直前の年に生まれたの。だから二十歳以上の年齢差があるわ」
 靄のかかったような姉さんの記憶しかないけど、やはりたった一人の姉であることには変わりなくて。こうして口紅という名の装身具をたどって姉さんの話を探してきた。なんでも、現在両方の口紅には相当な額の賞金がかけられてるらしい。…赤い口紅の方は絶対に見つからないでしょうけど。
「なるほどなぁ…俺の聞いた話は口紅の歴史とそのいきさつだったから、お前さんは出てこなかったわけだ」
彼は納得したように頷くと、またもや私が驚くことを口にした。
「それでお前さんは、青いほうの口紅を探してるってわけかい」
「え?どうして青い口紅なの?」
「そりゃあお前さんが赤いのを持ってるからだろう。オルゴールの蓋に化けた赤い口紅を」
「…………」
 私はトランクを握る手に力を込めた。悪い人ではなさそうだけど、やっぱりここまで的確に言われてしまうとさすがに焦る。警戒心が見えたはずだが、おじさんは気にせず話を続けた。
「青い口紅の居所は、残念ながら俺も知らねぇんだ、すまないな」
「そうなの…。じゃあまた探してみるわ」
「あぁ…もし見つかったら俺に教えてくれ。お前さんが探した話を買うからよ」
 なるほど、情報屋っていうのはこうやって話を売買してるのね。
 とりあえず、欲しい話は聞けたので私は値段を尋ねた。そろそろ次の街に移動しないと日が暮れてしまう。馬車も見つかりにくくなるだろう。
 金貨三枚ほどを覚悟していたのに、おじさんが言った値は驚くほど安かった。懐から銅貨を二枚出して、彼に渡した。
「まいどありだ、お嬢さん」
「いいえ、こちらこそ安くしていただいてありがとう」
「あぁ。……口紅、見つかるといいな」
「えぇ、きっと見つけてみせるわ…!」
 私は一礼しておじさんに背を向けた。

 少女が路地から姿を消すのを見届けると、俺はもたれかかっていた汚れた鞄を出した。手で中を探って目当てのものを取り出す。
「―――妹だってな…よく似てやがる。俺は後悔してもしきれないほどの罪悪感で胸がいっぱいだけどよ…これで少し、軽くなった気がすらぁ…」
 握った首飾りに話しかける。傍から見たら怪しいが、俺の本音を言える唯一の相手だ。
「嘘ついちまって申し訳ねぇが…俺が死んだらあの子の手元に行くよう手配するか。その方がお前もいいだろ?」
 傾いた太陽が、暗い路地に久しぶりに顔を出し…、首飾りに輝く、吸い込まれてしまうような美しい青玉に優しい光が反射した。


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